僕は君が

ときめきの用例採集

映画『太陽』

WOWOWで2015年の映画が放送されていたので感想を。映画化によってここまで違う側面をフォーカスするのかと衝撃を受けた一作。

イキウメ版『太陽』は未見。『太陽』を下敷きとした蜷川幸雄演出『太陽2068』は数回観劇。2014年夏を捧げたぐらいに、あの時期は渋谷駅とシアターコクーンの行き来ばかりしていた。『太陽2068』が好きすぎてイキウメ版戯曲やインタビュー雑誌なども取り揃えたのでイキウメ版についても多少の知識はあり。どうしても『太陽2068』への思い入れが深すぎてそちらと比較してしまうので、もういっそのこと明確に比較した視点で映画の感想を書いてみる。与えられた役割が違いすぎるので舞台と映画でのキャストの比較などはなし。2014年当時の感想がまだiphoneメモに眠っているので、そのうち、『太陽2068』の感想も書き上げたい。

映画『太陽』は基本的にはイキウメ版に沿いつつ、『太陽2068』の一部設定も織り込んでいる。強姦や二人での旅立ちは『太陽2068』での追加または改変シーン。戯曲だけを読んだ感想になるけれどイキウメ版は群像劇の印象が色濃く、『太陽2068』は二人の若者に焦点を当てた青春ものとしてのエモさが強い。映画はそのどちらとも雰囲気が異なっていて、旧態依然としたムラ社会への閉塞感を覚える若者たちをフォーカスしている。映像化によってかえってSFらしさが薄れてしまった気がするのは惜しい。ただ、要所要所で映像の強さは感じていて、特に村の闇の濃さとノクスの特異性を端的に表現したプールのシーンはよかった。旧人類側は明かりがなければものすごく闇深くて、テクノロジーに支配されていない世界。SFと謳いながらあのゲートには笑ってしまった。めっちゃアナログ。あ、映画ですごく好きだったのは鉄彦の作る仮面。何あれ可愛い。

ウイルスの感染を克服し心身ともに進化したけれど、それと引き換えに太陽の下では生きられない体質になってしまった新人類【ノクス(夜に生きる存在)】。もう一方は、太陽の下で自由に生きられるものの、ノクスに管理されることで貧困を強いられている旧人類【キュリオ(骨董的存在)】。キュリオからノクスへ転換は可能だが、ノクスへの転換は医学的に20歳までの若者に限られていた。ある日、とある寒村でノクス駐在員がキュリオに惨殺される事件が起こる。その結果、村はノクスによる経済封鎖を受けてより一層貧しくなり、転換のチャンスも奪われてしまうのだった。

時は流れ、10年後。キュリオとして生きる青年・奥寺鉄彦(神木隆之介)は、村での生活に憤りを感じながら鬱屈とした日々を送っていた。彼の幼なじみの生田結(門脇麦)は、自分と父親を捨ててノクスへと転換した母親(森口瑤子)とノクスそのものを憎みながらも村の生活を少しでも良くしようと前向きに暮らしていた。そして、ノクスに憧れる鉄彦とノクスを憎む結の運命を大きく変える出来事が起きる。それは10年ぶりにノクスによる経済封鎖が解かれることだった。

太陽を回避して生きるノクスの世界と、太陽のもとで生きるキュリオの世界。2つの世界を隔てていたゲートが開き、そこに門衛としてノクスの駐在員・森繁(古川雄輝)がやって来る。ノクスに憧れる鉄彦は何かと森繁の元を訪れ、いつしか2人の間には友情が芽生え始めていた。また、キュリオからノクスへの転換手術の応募も始まった。真っ先に転換の応募をした鉄彦は、まもなく自分にやって来る明るい未来を夢みていたが、選ばれたのは、なんと結だった。結の父・草一(古舘寬治)が本人に無断で応募していたのだ。ショックを隠せずに荒れ狂う鉄彦と望まない転換に戸惑う結。

そんな矢先、10年前の事件を起こして逃亡していた鉄彦の叔父・克哉(村上淳)が村に戻ってくる。相変わらず傍若無人に振る舞う克哉の登場によって村はふたたび不穏な空気に包まれる。ノクスとキュリオは共に手を取り合いながら生きることはできないのか、2つの世界の隔たりを消すことはできないのか。
新しい未来のために、それぞれが自分の意思で生きようと決意したとき、世界はこれまでと違う方向へと動き出したかのように見えた─。

 

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ムラ社会

新人類(ノクス)の近未来的な社会と旧人類(キュリオ)の旧態依然とした社会。この二つが対比して描かれていた舞台とは違い、映画では土着的なムラ社会の持つ閉塞感や凄惨さを描くことに尺が割かれている。身内から犯罪者を出した家が焼き討ちに遭うわ、村に再度災いをもたらすであろう犯罪者を自分たちの手でリンチするわ、ムラ社会に何か恨みでもあるのかーいとツッコミを入れたくなるほどに負の面を描ききっている。あ、リンチは舞台でもある。『太陽2068』ではRadioheadの曲が爆音で流れる中でのリンチ!その場面が狂おしいぐらいにぐさぐさ突き刺さったので、別にリンチ描写を否定しているわけではない。また、ノクス転換手術申請書について、結にノクスになってほしくないため村長である父に拓海が掛け合ったときの村長の言葉がこれ。「見られているから無理だ」。その言葉通りノクスによる監視カメラがあるので村長は結の申請書を秘密裏に処分などはせず公平な対応を取る。その一方で、監視カメラなどない村の家ではリンチが行われる。旧人類の社会では見られていなければ何をしても構わず、自浄作用だと本気で信じている節さえある。その狭い世界で生きてきた自覚のある鉄彦にも二つの劣等感がある。何故キュリオに産んだんだ!と母を責め立てるし、お前はノクスだから俺の気持ちが分からないんだ!と新人類である森繁に対してコンプレックスを露わにする。ここではないどこかへ行きたいけれど行けない。それを鉄彦は全て産まれのせいにするしかなくて地団太を踏む。子供の癇癪に近い。
また、ムラ社会を分かりやすく描くためか、映画では男女の役割が恐ろしいまでに分けられていた。というか、村では女性にはほぼ役割は与えられていない。幼なじみの拓海が、ノクス転換手術に当選した結を引き止めるために取った手段は強姦。地元に縛り付ける方法が子供を産ませることっていう恐ろしさよ……。その拓海を罰するのは結の父・草一だし、村に災いをもたらすだろう鉄彦の叔父・克哉に制裁を加えるのも男性たち。結本人には拓海に復讐する権利は与えられず、村の集会場面でも女性が発言することはなかった。恐らく集会場面で喋った唯一の女性は鉄彦の母・純子で、それもノクスの役人に促されてのものだから皮肉的。しかも純子は弟である克哉が戻ってきたときにはすでに亡くなっていて、なじる言葉を言う間さえ与えられていない。映画の中では女性は圧倒的に蚊帳の外だ。舞台はといえば、純子はそもそも亡くならず、村での発言権も強い。映画では意図的に女性の地位を低下させて描いたんだろうと思う。


ノクスとキュリオの対比

イキウメ版戯曲での本来のテーマだろうノクスとキュリオの対比よりも、映画ではムラ社会の悪しき因習を取り上げることに尺が割かれていて、意識的にキュリオのネガティブアピールをしているように感じられた。そりゃ結もノクスを選びますわ……と思えてしまうのがもったいない。イキウメ版・蜷川幸雄版問わず舞台では、ノクスにもキュリオにもそれぞれ欠陥があることは明示されている。例えば、結の父・草一の友人である金田。舞台での金田はキュリオからノクスに転換した立場でありながらも、「ノクスは病気だ」と最後に涙混じりに言う。他にも、森繁が何度もノクスの欠陥について口にする。そういった描写が映画では(意図的に?)カットされているため、舞台でのテーマからは一定の距離を置いていることが分かる。だからこそ、ここではないどこかへ感に苛まれている若者を映画では描きたかったのだろうと最終的に理解した。
ノクスとキュリオで、女性の役割は似て非なるものがある。キュリオのムラ社会で結が強姦されたように、女性には結局は子供を作る機能しか託されていないように見える。一方で、性行為に愛情を伴わず子孫を残すための交配と化しているノクスの世界でも、女という性は機能として扱われている。女性が子孫を残すための機能という役割は同じながら、相手である男性の心持ちが大分異なる。拓海が結を強姦するシーンなんて暗転して次に展開させればいいはずなのに敢えて数分以上流したのは、何かしら意図があるはず。その意図は、ノクス社会との対比かと今のところ思っている。性行為に子孫を残すこと以外の意味を与えているのは、キュリオだけなのかもしれない。

終盤の地獄絵図、屋内から撮影していることにより散らかって見えた。舞台で観たときは当然遮るものもない状態で、手首を失いながらも寝袋の中で呻きつつ鉄彦を制止する森繁、包丁を持ったまま悩み苦しむ鉄彦、放心状態から徐々に冷め切った表情へ変化していく結、克哉を制裁する村人たち、これらを一目で見ることができた。映画では屋内からの撮影なので壁や土間によって地獄絵図が散らばってしまって残念。ただ、映画での追加設定である鉄彦の母・純子が横たわる布団、縁側でもはや無気力になってしまった結の父・草一を映し出すにはこうするしか仕方ないだろうから、ノクスとキュリオの対比から逸れてしまうのも不可抗力かも。リンチ現場のすぐそばで寝袋からなお理性的に制止を訴える森繁の図は、ノクスとキュリオの差が際立つんだけどな~~~。そのそばには鉄彦によって斧でぶった切られた手首が転がってるという。
舞台での鉄彦は自らの手でノクスになれる選択を断ち切る。映画では選択肢さえ与えられないままに鉄彦は森繁と旅に出る。どこかへ行きたがっていた鉄彦が旅立てたってことでオールオッケーなのかな。


森繁の存在意義

 映画、森繁必要です!??もうちょっと存在意義を見出してあげてほしいと思ってしまう森繁モンペ。舞台では鉄彦の相棒だったはずが、映画では鉄彦を村から脱出させるための単なる装置に成り下がってしまった感があって辛い。辛いぞ。装置に過ぎないため、森繁は大して主張も口にしない。舞台のように森繁が話せば、持つ者と持たざる者の対比が浮き彫りになるのにな~~~。森繁が鉄彦に「キュリオの芸術は素晴らしい」なんて語るところは、持つ者の無意識の優位性が露骨に出ていたのに。森繁を演じた古川雄輝さんはそういう役をナチュラルに演じられそうなイメージがあるので、もう少し森繁にも尺が割かれていれば……と惜しい。


結の選択

膨らみに膨らんだ風船がいつ割れてもおかしくなさそうだった『太陽2068』の結に比べて、映画の結は徐々にキュリオの世界に対して絶望していく。男という性によって抵抗もできないまま蹂躙され、男による暴力でしか解決を図れないムラ社会から逃れられない。土着的な日本のムラ社会で辟易する。そんな結が新人類ノクスの社会を選ぶのは正直納得しかない。映画では強姦シーンの生々しさが結の選択にさらに説得力をもたらす。拓海役の水田航生さん、登場は少ないながらも結への執着を垣間見せていたので物語のトリガーとなる行動への説得力がある程度あってよかった。強姦シーンにリアリティーを出すのって難しいだろうにやり遂げた感があって凄味が増していた。
転換手術を終えた後の結の溌剌とした口調に薄気味悪さを感じさせるのがさすが門脇さん。キュリオ特有の葛藤を捨てることができた代わりにノクスではもはや持てない情の喪失の可視化がなされていた。表情と声などからその喪失をキュリオ側と観客に目の当たりにさせなければならないという難しい役どころだと思うけど、門脇さんよかった!

 


ラスト

鉄彦が一人でオンボロ車を走らせるのは別にいいんだけど何故に夕方……。日光を浴びることができない森繁はトランクの中に隠れていて、姿を現さないまま鉄彦と言葉を交わすっていうラスト。そこはせめて夜にして、鉄彦と森繁の二人で運転席に座っているシーンをラストにした方が分かりやすいのでは……。ラストをこの二人で締めくくるということは二つの種の共存と希望を表現していると思うので、二人ともの姿を映し出さないと厳しくないだろうか。鉄彦を主役に据えているとはいえ、夕暮れの中すすきの原を車で駆け抜けていくのはよかったけれど、ノクスとキュリオの対比も浅いから群像劇にしたいのか、二人にフォーカスした友情ものにしたいのか、全てが中途半端に見えてしまって残念。夕暮れの中すすきの原で車走らせたかったのかなーーーラストシーンありきだったのかなーーー。映像としては美しかったんだけども、それまでエモさを全く押し出していなかったから急に感傷的になられてもついていけないという哀しさ……。あ、エンドロールに何も音楽が流れないのはよかった。そういう一見突き放した雰囲気がこの映画には合っている。


舞台版がどれだけ好きなんだよ!っていう感想に結局終始してしまって申し訳ないけれど、舞台から映画にするにあたっての取捨選択の好みがひたすら違ったんだろうなというのが一番の感想。カタルシスを求めるなら『太陽2068』のように別種族同士の友情に重きを置けばよかっただろうし、重苦しい現実の中の一縷の希望を表現するならイキウメ版『太陽』の方がふさわしかったんじゃないかな。近いうちに『太陽2068』の感想も書き上げよう。